《モラ夫さん》別居婚までのストーリー単身赴任まで②

私は私を生きるために、色んなものを手放し始めた

私は妻ではなくおかん?!

子供を連れて数年ぶりの地元へ帰省。
宿泊先は幼馴染宅。
幼馴染宅で迎えた朝にソワソワしていた私。
<どうしたん?>
<いやー、電話しても起きへんからさ、大丈夫かなって思ってな。>
<なんで、起こすの?>
<起こしてと言われたから。>
<自分で起きるやろ。>
<いつも起こしとるんよ。>
<えーーそこまでしとるん?やっとることおかんやん。>


そうなんよ。
私、出掛け先でも彼の事を常に気にしていた。
ちゃんと起きたかな?
ご飯食べたかな?
洗濯物、洗濯機に入れたかな?
とかとか。
今思えば信じれない事をしていた。

それから、普段の私のしている事を幼馴染に話した。
<やりすぎやろ。大人やん。ほっとけばええやん。>
確かに。。。
私は知らない間に彼の母親をしていた。
2人の子育てしながら、産んでもない大きな大人の身の回りの世話をしていた。
幼馴染の言葉で、気づかされた。
けど、どうやったらほっとけるん?

私は過保護なぐらいにモラ夫さんの身の回りの世話をしていた。幼馴染の会話で気付かされた。けれど、どうして止めたらいいのか分からなかった。

私は私でいたい

習慣づいてしまったモラ夫さんへの私の行動を変えてくには大変だった。
まずは、朝起こさない事から始めた。
それを、モラ夫さんに伝えるのもしんどかった。
もしキレられたらどうしよう。止める理由を聞かれたらどうしよう
っと考えた。
<貴方は子供じゃないから自分で起きれるやろ。>
そんな風に言えば良かったけど、当時の私にとってはこの言葉を言う事が難しいことだった。

それから、少しずつ手放し始めた。

  • 発達障害ーADHDーのモラ夫さんは毎日の服薬の服薬管理をさせた。
  • 籠りきっている自室も、極力入らないようにして掃除もさせようと仕向けた。

手放し始めてから3年近くなる。
当時、彼にどんな事を私がしていたのか思い出せれないが、これだけは覚えている。
手放す時には苦痛が伴った。
人が変わる時こんなにエネルギーがいる事を知った。

人は周りの変化を求めるけれど、自分自身の変化にはエネルギーが必要だから変化を恐れる。
私もそうだった。
私は私だけの事、私がしたい事だけを考えたい、したい!
と思っていても、それまでもお節介焼きの思考癖がなかなか手放せれなかった。

私の存在価値

私は好んでモラ夫さんの身の回りのサポートを妻としてではなく、それ以上の事をしていた。
私がいなくなってまうと彼はどうにかなってしまうんじゃないか。
と思ってしていた。
けれど、子供が生まれたらモラ夫さんだけをお世話していくわけには行けなくて、命を掛けて産んだ子を育てていかなければならい。
モラ夫さんは妻の私が徐々に娘の本当の母親になっていくことに、
<なんで、俺にはしてくれへんの?>
って思って、もしかしたら違和感を感じたかもしれない。
大人の彼が抱える問題は彼の問題で、私がそう思える手放す前は、一緒に悩み苦しんだ。
必要であれば夜中まで二人で話し合った。
話す内容は大体、彼の職場の人間関係。
私が聞いてあげて、良い方向に進んでくれたらええなぁ。
だから、時間がなくても悩んでいたら聞いていた。
落ち込んでいた時は、
<大丈夫やよ。>
って抱きしめた。

彼へのサポートが私の存在価値みたいなのを感じていたのかもしれない。これは共依存だった。

<そうなんやね。>振り回されない

けれど、発達障害の彼は相手の気持ちを汲み取るというのが苦手で転職する度、いつも同じ問題にぶち当たる。
いつしか、私はモラ夫さんとの生活に疲れていた。
彼の問題に一喜一憂することを止めよう。手放そう。
この一喜一憂しないというのが一番辛かった。
良い話があっても、良くない話があっても、
<そうなんやね。>
で終わらせた。
それまでは、気持ちに寄り添って一緒に喜び、悲しむ事をずっとしてきたのに急にそんな態度に変えるのは苦しかったし辛かった。
でも、自分のメンタルを安定させるにはやるしかなかった。
彼の問題を私が一緒に背負っていた頃は、イライラして子供らに当たって子育てに影響があった。
人間関係が原因で転職続き、不安定な家計、それをサポートしながらワンオペ育児。。。
<疲れた。眠い。>
と言われ、モラ夫さんは私の話は聞いてくれなかった。
これだと、私のメンタルのバランス崩れるよね。

長女が今となって言う。
<まま、ぱぱといっしょにいたときはいつもいらいらしていたよな。>
今は穏やかに暮らせているってことね。

余計なモノを背負いすぎる癖の私は、ストレスになり子育てに影響していた。

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