幸せになる権利

私はずっと苦労慣れしてきたから、幸せになることに臆病になっていたかもという話。

青い空見上げてつぶやく、まだいけるかも

一年前の私は、天気が良く青い空を見上げてこう思う。
<<まだ、いけるかも。私の我慢が足りやんだからかも。>>
今思うと、恐ろしい思考やわ。
散々傷ついて、沢山泣いてきたのに、なんでそんな風に思うんやろうか。。。
相談に乗ってくれた友達たちに言うと、
<あかん、あかん。何言っとるん?!>
そう言われていた。
前の夜に目が腫れるぐらい泣いても、青い空を見上げて不思議とそう思ってしまった。

十分やったやん。
どんな時も、寄り添ってきたやん。
子育てしながら、よくやってきたやん。

と言われる。
そう言われると、
<<そうや。もう十分。いや、十二分にやった。>>
と思うんよ。
でも、不思議。
まだやれるかもしれんって。。。

私の周りには、小さな幸せがいっぱい

今日は気温があがって良い天気。
窓からのぞく空を見ると雲一つない青空。
<<子供と他愛もない話をして、私は幸せやなぁ。>>
そう思った。
子供のこの笑顔があれば、私は生きていける。
周りの人に大事にされ、
好きな仕事を少しだけ出来て、
子供といつも一緒におられる。
<<私、幸せやなぁ>>
めちゃくちゃ穏やかな気持ちやった。

ん?私は幸せになっていいんやろうか?
いやいや、幸せになってもええんやで。
そうや、幸せになろう。


何を思って幸せと感じるかは人それぞれ。

ほんまにそうや。
私は、小さな幸せを感じられたらそれでええ。
最低限の生きていけるお金があれば十分。
子供らと日常の会話をして笑って過ごせたらええ。
私が望んでいる幸せってこんなんなのに、なんでかつての私は幸せと感じられやんだんやろか。。。

早く自立したかった

私は、幼少期から経済的にも精神的にも苦労してきた。
子供らしい子供でなかったからなぁ。
幸せって感じる事がなかなかなかったかもしれん。
親にモノをおねだりする事がなかった。
どっかに連れて行って!と頼んだ記憶もない。
長期休みが好きじゃなかった。
どこも連れて行ってもらえないから、めちゃ退屈。
宿題も早々に終わらせる。
ラジオ体操も皆勤賞。
学校の開放プールも行っていた。
長期休み明け、友達らが出掛けた話をする。
苦痛やったなぁ。
嫌やったなぁ。

平気な顔をしていたやろうに。

早く家から出たかった。
早く働きたかった。
自分でやりたい事して欲しものは自分で手に入れる!と思っていた。

自分が幸せになることを許してあげる

苦労慣れしすぎて思考の癖が苦労する方に行ってしまうみたい。
引っ張られるというんやろうか。。。
<<自分が幸せになるのはいいんやろうか。自分だけいいんやろうか。>>
という、申し訳ない気持ちに無意識的になるみたい。
だから、幸せになれる選択をせず、苦労する選択をする。
近くで見ている友達は、こんな私も見るとじれったいと思う。
<十分やったんやから、幸せになったらええんよ。>
言われる。

呆れちゃうよな。

そっち行ったら、傷つくよ~という道に行ってしまう事もしばしば。
人はそれをいい風に言えば、
ー優しい人ー
悪く言えば、
ーお節介焼きー

今日の見上げた青空はいつもと違う感情やった。
ほんまに穏やかで、
<<私も幸せになってもええんやよね。>>
という気持ちになった。

でもまだ、少しちらつく。
<<モラ男さんは、今の環境で幸せなんやろうか?!
幸せは人それぞれ違うと思っているけど、どう感じとるんやろうか?>>

また、お節介焼きさんが現れました。
けど、今回はすぐ引っ込めた。
あなたが出る幕じゃないよ~。

少しずつ今の環境を受け入れられるようになってきた証拠かも。
私の思い描いていた理想の夫婦像、理想の家族像を諦めて、
新たな形を受け入れ始めてきたんかもなぁ。

私は私。
色んな夫婦の形があってええ。
色んな家族の形があってええ。
子供たちもきっと分かってくれている。



コメント

タイトルとURLをコピーしました